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黄金世代列伝
「ガラスの貴公子・三杉淳」その2 」


中学生になり、身体的には成長していく三杉であったが、心臓の病は回復へと向かわず、
キャリアの大半を棒に振ることになった。

三年のとき、全国大会出場をかけた都大会決勝にて日向小次郎率いる東邦学園を苦しめることで
わずかに存在感を示したが、彼にとっては物足りない結果であったに違いない。

しかし、天性のスターともいえる彼をサッカーの神は見捨てていなかった。
中学生活の最後で彼は強烈な輝きを放つ。

パリで開かれたジュニアユース世界大会の場で、彼は世界のサッカー関係者に強烈な印象を残す。
芸術の国で貴公子が鮮やかに輝いたのは話が出来すぎというものか。

ジュニアユース大会準々決勝の対アルゼンチン戦、天才ファン=ディアスが日本を苦しめたこの一戦で、彼は後半終了間際に登場。
巧みなドリブルで数人をかわし、最後は大空翼に勝るとも劣らない華麗なオーバーヘッドキックで決勝点を挙げたのである。

「まだ日本にはこんな奴がいたのか!」と当時スタンドで観戦していた他国のスタープレイヤーたちは驚愕したという。

彼は準決勝のフランス戦でもDFとして出場。
日本のゴールを懸命に守った。決勝の場こそ心臓の具合により出場がかなわなかったが、日本の優勝に貢献したのは間違いない。
この大会にて、本来、彼の役割はコーチとしてのものだった。
選手として登録はされていたものの、日本サッカー協会は三杉の指導者としての資質を見抜き、コーチとして役割を与えたのである。慧眼であったといえよう。
実際、松山光をDFにコンバートするよう進言したのは彼であり、後にアジア最高のリベロと呼ばれた松山の活躍を考えると、早くからその適性を見抜いていた三杉の才能には恐れ入るばかりである。

大会後には、各国のサッカー関係者から三杉への接触があったとされている。が、心臓病という事情を聞き及んで、どのチームも契約を躊躇したというのが事実のようだ。
ただ、このときの悔しさから、彼はそれまでぼんやりと考えていた医者を志すという目的を具体化させたという。

「この頃、憧れたのはソクラテスだった」と、サッカー選手でありながら医者の資格を所持していた往年のブラジル代表選手の名を挙げている。



不思議と三杉淳という人物は、節目、節目で輝きを放つ人物であるようだ。
高校時代においても、前半彼は雌伏のときを過ごしたが、三年時にスポットを浴びる。

しかも、三年を迎えたときに彼を待っていたのは、人生最大の喜びといってもよかった。
彼はついに心臓病を克服したのである。

初めは呆然とし、喜びに気づいたときには、同行していた青葉弥生の手を握りしめ赤くなったというほほえましいエピソードが伝わっている。

しかしながら、成長期において十分なトレーニングを積めなかったブランクは、さすがに短期間で埋められるものではなかった。
特にスタミナ面での不安は大きかった。

彼はスタミナの少なさをカバーするために、ジュニアユース大会で経験したDFに活路を見出した
(この件に関しては「三杉本来のポジションには大空翼の存在があったためだ」と若干意地の悪い見方をする評論家も存在する)。

もっとも、天才肌の彼は、このポジションでも非凡な才能を見せた。
少なくとも、他の日本DF陣の誰よりも実力では優れていただろう。
特に相手のパスコースを読むことと、オフサイドトラップの指揮にかけては世界でも最高レベルといわれた。

「この頃の憧れはフランコ=バレージだった」と往年の名DFの名を挙げている。



ワールドユース大会においても彼は活躍を見せ、日本の優勝に貢献をしたが、天才三杉淳にしては華やかさに欠けていたかもしれない。
彼自身も満足はしていなかったという。

アジアレベルの予選はともかくとして、本大会に入ってからは、これまで彼がほとんど体験したことがない――ボールを奪われることや、敵に簡単にかわされるといった――経験をすることになった。
マスターしたドライブシュートも決まることがなかった。

この年の大会は空前のハイレベルといわれ、後のサッカー界に大きな功績を残す選手たちばかりが出場していたが、
「ここまで通用しないとは・・・・・・」と、三杉は世界の壁に呆然としたという。
特にフィールドを自由に駆け巡るブラジルの天才、ナトゥレーザやサンターナに対しては、ショックを受けると同時に、嫉妬を感じたと後に告白している。


対ブラジルの決勝戦で、司令塔の翼が徹底的に研究され、日本は窮地に陥った。
大会前に岬太郎が交通事故で大怪我を負ったために、日本は翼以外にゲームメイクを任せられる人材がいなかった。

「せめて岬がいれば・・・・・・」

そのような声が聞こえたとき、「自分の名が出されないことが悔しかった」と、三杉は後に述懐している。
しかも、結果的に岬が怪我を押しながらも出場することでブラジルを破っただけに、悔しさはひとしおであった。

ただし、「この時点で自分がゲームメイクを任されていたとしても、ブラジルには勝てなかっただろう」とも、三杉は後に述べている。

一方で、三杉びいきの評論家からは「三杉は守備の要であり、MFに上げるわけにはいかなかった。彼がいなければ、ブラジルの猛攻を2点で防ぐことは不可能であっただろう。だから、名前が挙がらなかったのは当然だ」と擁護する声もある。



いずれにせよ、三杉にとって、高校、さらには続くJリーグベルマーレ平塚でのプレイは失ったブランクを埋める時期であり、後のキャリアへの下地を作る時期であった。

当時、三杉は医大生として学業とサッカーとの両立を要求されていた。
そのためか、ベルマーレでは十分な活躍の機会が与えられず、チームもJ2に陥落。
三杉はハイレベルな環境を求め、自宅とも近いFC東京への移籍を決断した。
FC東京では右サイドでのプレイを要求された。

天才である彼は、初めて経験するポジションにも当然のように順応し、特に正確で速いクロスは世界レベルといわれ、
優れた容貌から「和製ベッカム」と異名を取った。
本人も「当時はベッカムに憧れていた」と語っている。



その3へと続く




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