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黄金世代列伝
「ガラスの貴公子・三杉淳」その3 」
FC東京在籍時、オリンピック代表に彼は選出されている。
マドリッドで開かれたこの大会で、大空翼率いる日本は金メダルを獲得する。
翼と岬の黄金コンビは健在で、イタリアで修行した日向小次郎も活躍、ハンブルグからバイエルンに移籍した若林も神がかり的なセーブを見せた。
三杉もボランチにリベロに右サイドにと活躍を見せたが、どうにも便利屋という印象が拭えなかった。
フル出場をするものの、アジア予選以外、彼に得点シーンはなく、本大会では各国のトッププレイヤーの前に実力差を見せ付けられるシーンもしばしば見られた。
特に親善試合でナイジェリアのエース、オチャドにかわされたのはショックであったと後に三杉は述懐している。
「あのとき、オチャドはボクなど眼中にもなく、岬君をライバル視していた。それをわかっていたから、日本にはまだこんな奴もいるぞと一泡吹かせてやろうと思っていたんだ。ところが、あっさりとかわされたんだからね。悔しかったよ」
それでも時折、天才の片鱗を見せたものの、もはや、世界は彼よりも日向小次郎や岬太郎、そして未完の大器といわれた新田瞬らに注目を寄せていた。
オリンピック後、三杉は世界への憧れを隠せないでいた。
バルセロナでプレイする翼との力量・経験の差は明らかであり、少しでも差を埋めるには海外移籍しかないと考えるのは自然の流れであった。
また、彼自身、翼との差を「才能の差」と考えたくないという本音もあった。
思わぬところから、救いの手は差し伸べられた。
当時、バイエルン=ミュンヘンへと移籍し、活躍していた若林源三が、当時バイエルンのエースであったカール=ハインツ=シュナイダーへと良質なパスを供給する選手を求めていたチーム事情を聞くに及んで、三杉淳を推薦したのである。
喉から手が出るほど欲しかったオファーに三杉は飛びついた。
所属チームも幸い理解を示し、完全移籍ではなかったものの、三杉はドイツへと旅立つことができたのである。
しかも、ありがたいことに、三杉は医学先進国であるドイツにて、医大へ通うことも許されたのである。
三杉が張り切らないわけがなかった。
この頃、三杉は青葉弥生へプロポーズをしたと伝えられている。
「君も一緒にドイツへ来てくれないか」
弥生夫人は雑誌のインタビューでプロポーズの言葉を尋ねられた際にそう答えている。
しかしながら、弥生夫人はドイツへ行くことがなかった。
ふたりが破局したわけではない。弥生夫人の胎内に新たな命が芽生えていたという事実があったからだ。
「あのときの主人の顔ったら、まるで日向くんのシュートが顔に直撃したみたいに呆然としていたわ」
「事実」が伝えられた際の三杉の様子を弥生夫人は同じくインタビューで答えている。
三杉はドイツへ旅立つ前に結婚式を挙げた。
黄金世代の面々が集う、盛大な結婚式であった。
大空翼のみスペインリーグが始まる前の大事な時期だからと出席を断ったため、後にさまざまな邪推がされたが、これは純粋に大空翼の性格によるものだろう。
三杉の実力はドイツでも認められた。
バイエルンでのポジションは右のMFであった。
ただし、バイエルンは中央にMFを置かないシステムであったため、実質的には司令塔的な役割もこなした。
左のMFスウェーデン代表ステファン=レヴィンと共に中盤を支配し、シュナイダーへと確実なラストパスを送った。
その強さは本物であり、バイエルンは国内リーグで無敵の快進撃を続け、ついには岬とオチャドの率いるパリSGを破り、欧州チャンピオンズリーグ優勝も成し遂げた。
(ちなみに大空翼の所属するバルセロナは、準決勝でパリSGに敗れ、敗退している。このとき翼は怪我で出場できなかった。翼と岬の対決が見られるチャンスであっただけに、相変わらず空気の読めない翼にサッカーファンは嘆いた。)
三杉は世界に認められた。
しかし、続いて行われたワールドカップでは、三杉はまたも翼の引き立て役にすぎず、日本DF陣の層が薄いことから、リベロでのプレイを余儀なくされた。
もちろん、リベロも重要なポジションであることに間違いはなかったが、翼のワンマンチームと化している日本では、その他大勢という扱いにされてしまいがちであった。
それでも日本が優勝するのだから、あながち戦術として間違いではないのかもしれないが、翼以外の選手から不満の声が聞こえ始めたのも事実であった。
大空翼の自己中心的な、ある意味天才的な性格、また独創的すぎるプレイに他の選手たちがついていけなくなったのである。
天才と称された三杉淳も例外ではなかった。
黄金コンビと言われた岬太郎でさえついていけなくなったと証言しているのだから当然だろう。
翼に増長や驕慢といった雰囲気も見て取られたことから、当時の日本代表監督見上辰夫は、欧州にいるという名目で大空翼を代表に召集しなくなった。
イタリアにいた日向小次郎やドイツにいた三杉淳を招集しているにも関わらず、だ。
当然、翼の代わりにゲームを組み立てる選手が必要となった。
順当であれば、岬太郎が第一の候補であったが、彼自身が後に証言しているように、彼は恒星であるより惑星でありたいタイプであったのである(衛星と言わなかったのは、彼のプライドか)。
また、翼にボールを集める戦術を長年起用してきた黄金世代は、トップ下の選手にボールを集める癖が出来ており、岬にマークを集中させればボールをカットできると読んだ他国DF陣の前に苦戦することが多くなってきた。
日本にはもうひとりゲームを組み立てる選手が必要だった。
見上が白羽の矢を立てたのが三杉淳である。
三杉は見上の期待に応えた。元々、戦術眼の長けた選手であるが、コーチ経験や後方から全体を見渡せるDF経験をしたことで、各選手の癖や動きを完全に把握しており、他の選手たちは、あまりに受け取りやすいパスに驚いたという。
ちなみにDFの穴は、後にアジア最高のリベロと呼ばれる松山光を下げることで修復した。
松山のいたボランチのポジションは、佐野満をコンバートすることで修復している。
(余談であるが、この件について翼びいきの評論家たちは、これまで翼の破天荒なプレイに感覚が麻痺していたため、三杉は受け入れられたのだと批判的な意見を寄せている。ただし、彼らも翼のプレイが周囲から浮いていたことについては否定しきれていない。)
「早熟の天才」といわれた三杉。
反対に言えば、「すでに終わっている選手」と見られていた三杉の復活には、周囲だけでなく、本人も驚いたという。
「この頃、もう一度クライフに憧れた昔を思い出したよ」とは、本来(?)のポジションに戻り復活した当時のセリフである。
三杉という恒星が輝くことで、岬太郎という惑星も本来の力を取り戻した。
翼と岬の黄金コンビに対して、ふたりの組み合わせは新黄金コンビと呼ばれた。
「翼より三杉の方がやりやすかった」と岬が発言したという証言があるが、信頼できる資料には残されていない。
また、この手の意地の悪い質問に対して、岬が公式な場で回答することはなかった。
ただし、岬と親交の深いタレントの石崎了は、「ボクは凡人にすぎないよ」と岬が語ったとされるエピソードをテレビ番組の中で暴露している。
三杉びいきの評論家たちはこの発言を根拠に岬は三杉派であったと見なしている。
その4へと続く
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presented by akechi