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Jリーグを作ったとさえ言われながらも、賛否両論あるキャプテン翼。
こんな最終回はいかがでしょうか?
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「大空翼の時代 −完結編−」 vol1


20××年、東京は国立競技場で往年の名選手たちを世界中から迎え、
ひとりのサッカー選手の引退試合が行われた。

その選手の名は大空翼――


永遠のサッカー小僧と呼ばれ、天才的テクニックでゴールデンエイジ(黄金世代)と
呼ばれる同年代の選手たちを率い、日本初のワールドカップ優勝を成し遂げた名選手である。
スペインの名門バルセロナFCに所属し、司令塔として活躍、
日本人初の欧州チャンピオンズリーグ優勝を経験した選手としても知られている。
 小・中学校時代に全国大会に優勝、卒業後ブラジルへ渡り、名門サンパウロFCでも中心選手として活躍、
その後スペインへ渡り、前出のチャンピオンリーグ優勝を始め、輝かしい経歴を誇る翼であるが、

サッカー人生の晩年は苦難の連続であった。

元より天才である彼のプレイは、凡人には理解しがたいものであり、結果が伴われていたからこそ、
賛美と驚嘆に変えられていた節があった。
 しかし、飽くことなき彼の向上心が技術をより向上させることによって、ますます理解しがたいものへと変容し、
徐々に結果も伴わないものへと変化していったのである。

 凡人には考えもつかないスペースへのスルーパスは、天才ゆえの産物であるが、
そのパスに反応できるFWは、おそらくこの世に存在しなかった。

 変幻自在のドリブルも、彼の意図を理解してフォローに入る選手がいなかったため、ひとたび止められれば、
空いたスペースからカウンターを食らうという失点シーンがしばしば見られるようになった。

 親善試合の対フランス戦で突然見せた自軍方向への20m逆走ドリブルは、今でも語り草である。

 こともあろうに意図が理解できなかった凡人のチームメート(早田・次藤)に止められ、
こぼれたボールをフランスのストライカー、ルイ=ナポレオンに得点されたシーンは
サッカー特番などで繰り返し放映されている。
 それも嘲笑の意味を込めて。
 (余談ではあるが、このときの失点によって世界屈指のGK若林源三は名誉ある代表無失点時間の世界記録更新を
あと3分でストップさせることとなり、翼との小学生時代からの友情関係が崩れたと言われている)


 ゴールデンコンビといわれた盟友岬太郎でさえ、ある時期からの彼のプレイにはついていけなかったと述懐している。
 岬太郎自身もすぐれたテクニシャンであり、パリSG所属時代には数々の栄光に輝いた選手であるが、
それでも翼にはついていけなかったという。
(もっとも、控えめで人を批判することが嫌いな岬が、翼に遠慮した表現を使ったとも言われており、
技術面の問題ではなく、翼の性格上の破綻についていけなかったのだという説が最近では定説となっている。)

大空翼は性格もまた天才(否定的な意味を込めての表現)であった。

 フィールド上での相手チームへの挑発的発言はしばしば批判を浴び、
マスコミでの言動は意味不明で空気を読むことができない人物と批判を受けた。
 しかも、彼自身がそれを自覚していなかったために、周囲の風当たりの冷たさは微風から強風へと変わっていった。

 さらに、翼は自らの実力について来られなくなったチームメイトに苛立ち、しばしば叱責を繰り返すようになった。
増長もあっただろう。
 代表選手のひとりで、後にマンチェスターUで活躍した松山光は

 「人が苦労して編み出した技を鼻で笑いながら簡単に真似されたことがあった。
自分が努力してきたことを否定されたような気がした。あの頃はチームもピリピリしていて、空気が悪かった。
誰も翼に話しかけようとしなかった」

と証言している。

 また、かつては翼信者として知られ、セリエAインテルで活躍した“太陽王子”葵新五も
「あの頃の翼さんは、薬物でも使っているんじゃないかと疑ったよ」
と、彼らしくない毒のある表現でコメントを残している。


 当時の日本代表を率いた見上辰夫監督は規律や調和を重んじる人物であり、翼の増長や奇行に対して、
理解する器を持ってはいなかった(かといって誰も彼を責めることはできないだろう)。

 見上は現実的で冷静な判断を下した。
 すなわち翼のスタメン落ちである。

 翼の代わりとなる司令塔は岬太郎ではなく、三杉淳が務めた。
 見上の判断は吉と出る。

 DFからFWまでをこなすユーティリティプレイヤーとして知られた三杉は、翼の代わりを十分に務めた。
 チームメイトとの連携に関しては翼以上との評価を得た。

 岬太郎とのコンビプレイは新ゴールデンコンビとの異名をとり、もうひとりの天才(こちらは否定的意味を含まない)
三杉淳の“復活“であると評された。

 常識人であり、また心臓病のハンデを克服してきた苦労人でもある三杉は、指導者としての資質も買われており、
他選手たちの長所と短所を見極め、長所を生かすことに主眼を置き、チームメイトおよび見上からの信頼を得た。


「翼からのパスに合わせるには、常に100%以上の緊張感を保っている必要があったが、
三杉からのパスは気づけば足元に来ているという感じだった。極端にいえば、寝ていても目を開けたときには
絶好の位置に転がっているという感じだったかな」
とは、かつて翼のライバルと目され、後にセリエA日本人初の得点王となった、ユベントスの“猛虎“日向小次郎の
コメントである。

はるかスペインでプレイしていたこともあり、大空翼は徐々に代表戦への召集がかからなくなった。
彼自身も苛立ちを感じていたのだろう。
日本中のサッカーファンを震撼させたあの事件が起こったのはそんなときであった。

 『大空翼、ブラジルへ特例で帰化!!』

そんな見出しが、スポーツ新聞の紙面だけでなく、一般紙の一面までを飾ったのは200×年×月×日のことである。

 しかしながら、いくら帰化したとはいえ、国際試合で活躍していた彼がブラジル代表でプレイすることは
規則上不可能であった。
 多くのサッカーファンは「また翼的な奇行か」と冷笑していたが、さらに驚愕のニュースが伝えられると、
翼に対する嘲りは怒りへと転化された。

 悪名高き『ロベルト本郷判決』が生まれた経緯には諸説あって明らかではない。

 翼の考案によるもの、当時ブラジルサッカー界で権力を奮い、政界とも太いパイプを持っていたという翼の師匠
ロベルト本郷によるもの、あるいはスポーツ訴訟専門の弁護士による入れ知恵と一般的にはいわれているが、
ブラジル政界による介入も噂されている。

 真相は明らかになってはいないが、少なくともなんらかの政治的工作が行われていないと
実現が難しかったのは事実だろう。
 いずれにせよ、国際スポーツ裁判所にロベルト本郷の名で持ち込まれた
 『国際試合への出場経験が十分な選手においても、他国に帰化した場合はその国の代表として出場することを認めるべき』
というこの要求は、異例のスピードで審査され承認された。

 一説によれば、次期ワールドカップまでの期間が一年しかなく、翼側があせっていたといわれている

(この判決によって、金で南米から優秀な選手を買い取り、自国へ帰化させる国々が続出することで
サッカー界の勢力地図が変わり、結果的にブラジルは自分で自分の首を絞めたことになるわけだが、
本稿の趣旨とは違うので、これ以上は触れない)。


 翼はブラジル代表監督に新たに就任したロベルト本郷の元、“天才“翼の意図するプレイに
おそらく60%程度は理解を示した”サッカー王”ナトゥレーザとコンビを組み、ブラジル代表としてワールドカップ優勝の
栄冠を再び受けることとなった。
 二カ国でワールドカップを抱く栄誉を受けたのである。

 しかも、よりによって決勝戦の相手は三杉淳率いる日本であった。

 日本国民の怒りはサッカーファンだけでなく、一般国民にまで広がっていった。
 マスコミが煽ったこともあるが、翼は危害を恐れ、日本にいる母親と弟をブラジルに避難させたほどである。


 かつての日本サッカー界の英雄は一躍ヒール(悪役)として扱われることになった。
 翼の過去の奇行など、プライバシーは次々と暴かれ、名誉は地に落ちた。




その2へ続く




                                                                                        

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